目次
- インフレーション理論とは何か
- 宇宙背景放射の発見と重要性
- 温度ゆらぎが語る宇宙の歴史
- COBEによる初期観測
- WMAPがもたらした精密測定
- プランク衛星による最高精度の観測
- スペクトル指数が示すインフレーションの痕跡
- 原始重力波探索の現状と課題
インフレーション理論とは何か
私たちの宇宙は今から約百三十八億年前、ビッグバンと呼ばれる高温高密度の状態から始まったと考えられています。しかし、標準的なビッグバン理論だけでは説明できないいくつかの重大な問題が存在していました。そこで登場したのが、インフレーション理論です。
インフレーション理論は、一九八〇年代初頭にアラン・グースによって提唱された画期的な仮説です。この理論によれば、宇宙誕生後の極めて初期の段階、具体的にはビッグバンから十のマイナス三十六秒後から十のマイナス三十二秒後という極めて短い時間に、宇宙は指数関数的な急膨張を経験したといいます。この膨張のスピードは想像を絶するもので、わずか十のマイナス三十二秒という瞬間に、宇宙のサイズは十の二十六乗倍以上にも拡大したと考えられています。
この急激な膨張は、標準的なビッグバン理論が抱えていた「地平線問題」「平坦性問題」「磁気単極子問題」という三つの重大な矛盾を一気に解決しました。地平線問題とは、宇宙の異なる領域が互いに因果関係を持てないほど離れているにもかかわらず、宇宙背景放射の温度が驚くほど均一である理由を説明できないという問題です。インフレーション理論では、これらの領域が膨張前には十分近くにあり、熱平衡状態にあったと説明します。
平坦性問題は、宇宙の幾何学的構造が極めて平坦に近いという観測事実に関するものです。ビッグバン理論では、宇宙が現在のように平坦であるためには、初期条件が信じられないほど精密に調整されている必要がありました。インフレーション理論は、急激な膨張によって曲率が希釈され、自然に平坦な宇宙が実現されると予測します。
磁気単極子問題は、大統一理論が予測する磁気単極子という粒子が観測されないという謎です。インフレーション膨張によって、これらの粒子の密度が極端に薄められたため、現在の宇宙では検出できないほど希少になったと説明されます。
さらに重要なことに、インフレーション理論は宇宙の大規模構造の起源についても説明を提供します。銀河や銀河団といった宇宙の構造は、完全に均一な初期宇宙からは生まれません。インフレーション期の量子ゆらぎが膨張によって引き伸ばされ、古典的な密度ゆらぎとして固定されたという考え方です。これらのゆらぎが重力によって成長し、やがて銀河や星々を形成する種となったのです。
宇宙背景放射の発見と重要性
宇宙背景放射、正式には宇宙マイクロ波背景放射は、ビッグバン理論を支持する最も強力な証拠の一つです。この放射は、宇宙誕生から約三十八万年後、宇宙が十分に冷えて光子が自由に飛び回れるようになった時代に放出された光の名残です。
一九六四年、ベル研究所のアーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンは、通信用アンテナで原因不明の雑音を検出しました。あらゆる方向から一様にやってくるこの雑音は、何をしても消すことができませんでした。彼らは当初、アンテナに巣を作った鳩の糞が原因ではないかと考え、アンテナを徹底的に清掃しましたが、雑音は消えませんでした。
この謎の雑音こそが、宇宙背景放射だったのです。プリンストン大学の理論物理学者ロバート・ディッケらは、ビッグバン理論が予測する宇宙背景放射を探していました。ペンジアスとウィルソンの発見は、まさにその予測を裏付けるものでした。この発見により、二人は一九七八年にノーベル物理学賞を受賞しています。
宇宙背景放射の温度は約二・七ケルビン、摂氏でマイナス二百七十・四五度という極低温です。この温度は、宇宙の膨張によって初期の高温状態から冷却された結果です。宇宙誕生直後の温度は数兆度にも達していましたが、膨張によって光の波長が引き伸ばされ、エネルギーが低下した結果、現在のマイクロ波領域の放射として観測されるのです。
宇宙背景放射の重要性は、その均一性にあります。天球上のあらゆる方向を観測しても、温度は驚くほど一様です。この均一性は、初期宇宙が極めて均質であったことを示しています。しかし、完全に均一というわけではありません。精密な観測によって、十万分の一程度の微小な温度のゆらぎが存在することが明らかになりました。
この微小な温度ゆらぎこそが、インフレーション理論の最も直接的な証拠なのです。インフレーション期の量子ゆらぎが宇宙背景放射の温度ゆらぎとして刻印され、現在まで保存されていると考えられています。これらのゆらぎのパターンを詳細に分析することで、インフレーション理論の正しさを検証し、さらには宇宙の基本的なパラメータを精密に測定することが可能になります。
温度ゆらぎが語る宇宙の歴史
宇宙背景放射の温度ゆらぎは、単なる偶然の産物ではありません。それは宇宙の歴史と構造形成の物語を記録した、いわば宇宙の化石記録なのです。
温度ゆらぎが生まれるメカニズムは、インフレーション理論と深く結びついています。インフレーション期、宇宙は量子力学的なゆらぎに満たされていました。通常、量子ゆらぎは極めて微小なスケールでのみ現れますが、急激な宇宙膨張によって、これらのゆらぎは引き伸ばされ、天文学的なスケールにまで拡大されました。
インフレーション膨張が終わると、これらのゆらぎは密度ゆらぎとして固定されます。宇宙の場所によって、わずかにエネルギー密度が高い領域と低い領域が生まれたのです。エネルギー密度が高い領域では重力が強く、物質が集まりやすくなります。一方、密度が低い領域では物質が少なくなります。
宇宙が膨張し冷却されていく過程で、これらの密度ゆらぎは音波として伝播しました。宇宙誕生から約三十八万年後、宇宙の温度が約三千度まで下がると、それまでプラズマ状態だった物質が中性化し、光子が自由に飛び回れるようになりました。この時期を「再結合期」または「最終散乱面」と呼びます。
再結合期において、密度が高い領域では光子が重力井戸の中に閉じ込められていたため、そこから脱出する際にエネルギーを失います。その結果、その領域から来る光は温度が低く観測されます。逆に、密度が低い領域から来る光は温度が高く観測されます。こうして、初期の密度ゆらぎが温度ゆらぎとして宇宙背景放射に刻印されたのです。
温度ゆらぎのパターンには、特徴的な角度スケールが存在します。これは音波が再結合期までに伝播できた距離に対応しており、「音響ピーク」と呼ばれる構造を形成します。音響ピークの位置と高さを精密に測定することで、宇宙の曲率、物質密度、暗黒エネルギーの量など、宇宙の基本的なパラメータを決定できるのです。
実際、温度ゆらぎの観測から、私たちの宇宙は空間的にほぼ完全に平坦であること、通常の物質は宇宙全体のわずか五パーセント程度しか占めていないこと、暗黒物質が約二十七パーセント、暗黒エネルギーが約六十八パーセントを占めていることなどが明らかになりました。
さらに重要なのは、温度ゆらぎのスペクトルがインフレーション理論の予測と驚くほど一致していることです。インフレーション理論は、ゆらぎの振幅がスケールにほぼ依存しない「スケール不変に近いスペクトル」を予測します。観測されたスペクトルは、まさにこの予測を裏付けているのです。
COBEによる初期観測
宇宙背景放射の温度ゆらぎを初めて検出したのは、アメリカ航空宇宙局が一九八九年に打ち上げた宇宙背景放射探査機、通称COBEでした。この衛星は、宇宙論の歴史において画期的な役割を果たしました。
COBEの主要な目的は二つありました。一つは、宇宙背景放射のスペクトルが完全な黒体放射スペクトルに一致するかを検証すること。もう一つは、温度の空間的なゆらぎを検出することでした。COBEに搭載された遠赤外線絶対分光光度計という装置は、宇宙背景放射のスペクトルを精密に測定しました。
その結果は驚くべきものでした。宇宙背景放射のスペクトルは、理論が予測する黒体放射スペクトルに完璧に一致していたのです。この一致の精度は極めて高く、自然界で観測された中で最も完全な黒体放射と言われています。この発見は、ビッグバン理論の強力な裏付けとなりました。
さらに重要だったのは、COBEに搭載された差分マイクロ波放射計という装置による温度ゆらぎの検出です。一九九二年、COBEチームは歴史的な発見を発表しました。宇宙背景放射には、十万分の一程度の微小な温度ゆらぎが存在することを確認したのです。
この発見の重要性は、いくら強調してもし足りません。もし宇宙背景放射が完全に均一であれば、現在観測される銀河や銀河団などの構造がどのように形成されたかを説明できません。温度ゆらぎの存在は、宇宙の構造形成の種が初期宇宙に存在していたことの直接的な証拠だったのです。
COBEプロジェクトを主導したジョージ・スムートとジョン・マザーは、この功績により二〇〇六年にノーベル物理学賞を受賞しました。スムートは授賞式のスピーチで「もし宗教的な人間であれば、これは神の顔を見たようなものだ」と表現し、この発見の深遠さを語りました。
ただし、COBEの角度分解能は約七度と、比較的粗いものでした。これは満月の直径の約十四倍に相当します。この分解能では、温度ゆらぎの大まかなパターンしか捉えられません。より詳細な構造を観測するには、さらに高い角度分解能を持つ観測装置が必要でした。
それでも、COBEの観測データから得られた情報は貴重でした。温度ゆらぎの振幅は、インフレーション理論が予測する範囲内にあることが確認されました。また、ゆらぎのパターンがほぼスケール不変であることも示唆され、これはインフレーション理論の重要な予測と整合していました。
COBEの成功は、宇宙背景放射観測の新時代の幕開けを告げるものでした。より精密な観測を目指す次世代ミッションの開発が加速され、宇宙論は観測科学としての新たな段階に入ったのです。
WMAPがもたらした精密測定
COBEの成功を受けて、アメリカ航空宇宙局は二〇〇一年により高性能な観測衛星を打ち上げました。ウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機、通称WMAPです。この衛星は、デビッド・ウィルキンソンという宇宙背景放射研究の先駆者にちなんで命名されました。
WMAPの角度分解能は約〇・二度と、COBEの三十五倍も向上していました。これは満月の直径の半分以下という精度です。この高い分解能により、温度ゆらぎのより詳細な構造を捉えることが可能になりました。WMAPは太陽と地球の重力が釣り合うラグランジュ点に配置され、九年間にわたって観測を続けました。
二〇〇三年、WMAPチームは最初の観測結果を発表しました。その成果は宇宙論に革命をもたらすものでした。温度ゆらぎの角度パワースペクトルが前例のない精度で測定され、宇宙の基本パラメータが数パーセントの精度で決定されたのです。
WMAPが明らかにした最も重要な発見の一つは、音響ピークの詳細な構造でした。温度ゆらぎのパワースペクトルには、特定の角度スケールで振幅が大きくなる「ピーク」が存在します。これらのピークは、再結合期における音波の定在波パターンを反映しています。
第一音響ピークは約一度の角度スケールに現れます。このピークの位置は、宇宙の幾何学的構造、つまり曲率を決定する鍵となります。WMAPの観測により、第一ピークの位置が理論予測と完全に一致し、宇宙が平坦であることが確認されました。曲率パラメータの測定値は、誤差範囲内でゼロと一致していたのです。
第二、第三の音響ピークも明瞭に検出されました。これらのピークの相対的な高さから、通常の物質と暗黒物質の比率を決定できます。WMAPのデータ解析により、宇宙の全エネルギー密度に占める通常の物質の割合は約四・六パーセント、暗黒物質は約二十四パーセントであることが判明しました。
さらに驚くべきことに、WMAPは宇宙の年齢を一億年以内の精度で決定しました。その値は百三十七億年、後の精密化で百三十八億年とされています。また、宇宙が現在加速膨張していることを示す暗黒エネルギーの存在も確認され、その割合は全エネルギー密度の約七十一パーセントと測定されました。
WMAPの観測で特に重要だったのは、温度ゆらぎのスペクトル指数の測定です。スペクトル指数とは、ゆらぎの振幅がスケールによってどのように変化するかを表す量です。インフレーション理論の多くのモデルは、スペクトル指数が一よりわずかに小さい値を予測します。この予測は「赤方偏移したスペクトル」と呼ばれます。
WMAPの測定によれば、スペクトル指数は約〇・九六という値でした。これは完全なスケール不変性からわずかに外れており、大きなスケールのゆらぎが小さなスケールよりもやや大きいことを意味します。この測定結果は、最も単純なインフレーションモデルの予測と見事に一致していました。
インフレーション理論にとって、このスペクトル指数の測定は決定的な証拠となりました。なぜなら、インフレーション以外の宇宙論的シナリオ、たとえば宇宙ひも理論などは、異なるスペクトル指数を予測していたからです。WMAPの観測により、これらの代替理論の多くが排除され、インフレーション理論の優位性が確立されました。
WMAPはまた、偏光観測も実施しました。宇宙背景放射の光子は、わずかに偏光しています。この偏光パターンには二種類あり、それぞれEモードとBモードと呼ばれます。Eモード偏光は密度ゆらぎによって生じ、WMAPによって明瞭に検出されました。一方、Bモード偏光は原始重力波の証拠となる可能性がありますが、その検出は極めて困難です。
WMAPの九年間の観測データは、宇宙論の標準モデル、いわゆるラムダ冷たい暗黒物質モデルを強固に裏付けました。このモデルでは、宇宙は平坦であり、暗黒エネルギーと暗黒物質が支配的で、構造は小さなスケールの量子ゆらぎから成長したとされます。WMAPのデータは、このモデルのあらゆる予測と一致していました。
プランク衛星による最高精度の観測
宇宙背景放射観測の歴史において、現在最高峰に位置するのが欧州宇宙機関のプランク衛星です。二〇〇九年に打ち上げられたこの観測衛星は、WMAPをさらに上回る性能を誇っていました。
プランク衛星の角度分解能は約五分角、つまり〇・〇八度という驚異的な精度でした。これはWMAPの二倍以上の分解能であり、満月の直径の六分の一程度に相当します。また、観測周波数帯域も九つのチャンネルに拡大され、三十ギガヘルツから八百五十七ギガヘルツまでの広範囲をカバーしました。
プランク衛星もWMAPと同様にラグランジュ点に配置され、約四年間の観測を実施しました。その冷却システムは極めて高度で、検出器は〇・一ケルビン、つまり絶対零度からわずか〇・一度という超低温まで冷却されました。この超低温環境により、検出器自身の熱雑音を最小限に抑え、微弱な宇宙背景放射の信号を正確に捉えることができたのです。
二〇一三年、プランク衛星チームは最初の全天マップを公開しました。そのデータの質は圧倒的でした。温度ゆらぎの地図は前例のない鮮明さで、宇宙の「ベビーフォト」とも呼ばれました。プランクの観測により、宇宙の基本パラメータの精度はさらに向上しました。
- 宇宙の年齢:百三十八・二億年(誤差〇・五パーセント以内)
- ハッブル定数:六十七・四キロメートル毎秒毎メガパーセク
- 通常物質の割合:四・九パーセント
- 暗黒物質の割合:二十六・八パーセント
- 暗黒エネルギーの割合:六十八・三パーセント
これらの値は、宇宙の組成と進化を理解する上で基礎となるデータです。プランクの測定精度により、宇宙論は「精密科学」の領域に到達したと言えます。
プランク衛星の最も重要な成果の一つは、スペクトル指数のさらに精密な測定でした。プランクが測定したスペクトル指数は〇・九六五という値で、統計的有意性を持って一より小さいことが確認されました。この結果は、完全にスケール不変なスペクトルを予測する理論モデルを明確に排除しました。
一方で、この値は最も単純なインフレーションモデル、特に単一スカラー場による緩やかなロール型インフレーションの予測と極めて良く一致していました。このモデルでは、スペクトル指数は一から微小量だけ小さくなることが予測されており、まさにプランクの観測結果がそれを裏付けたのです。
プランクはまた、温度ゆらぎの非ガウス性も精密に測定しました。単純なインフレーションモデルは、ゆらぎがほぼ完全にガウス分布に従うと予測します。プランクの観測により、非ガウス性は存在するとしても極めて小さく、単純なインフレーションモデルと整合的であることが確認されました。
偏光観測においても、プランクは大きな進歩を遂げました。Eモード偏光のパワースペクトルが高精度で測定され、温度ゆらぎとの相関も詳細に調べられました。これらのデータは、再結合期の物理過程を理解する上で貴重な情報を提供しています。
プランクの観測データは、インフレーション理論に強い制約を与えました。数多く提案されているインフレーションモデルのうち、いくつかはプランクのデータと矛盾することが判明し、排除されました。一方で、最も単純な単一場インフレーションモデルは、データと驚くほど良く一致することが示されました。
二〇一八年に公開された最終データリリースでは、さらに解析が進められ、宇宙論パラメータの精度がいっそう向上しました。プランクの遺産は、今後数十年にわたって宇宙論研究の基礎となるでしょう。現在でも、新しい解析手法を用いてプランクのデータから新たな知見を引き出す研究が続けられています。
スペクトル指数が示すインフレーションの痕跡
温度ゆらぎのスペクトル指数は、インフレーション理論を検証する上で最も重要な観測量の一つです。この指数が持つ物理的意味と、なぜそれがインフレーションの決定的証拠となるのかを理解することは、現代宇宙論の核心に触れることになります。
スペクトル指数は、通常「ns」という記号で表されます。この値は、異なるスケールでの密度ゆらぎの振幅がどのように変化するかを定量化します。もしnsが正確に一であれば、ゆらぎは「スケール不変」であり、大きなスケールでも小さなスケールでも同じ振幅を持つことになります。一より小さい場合は「赤方偏移スペクトル」と呼ばれ、大きなスケールのゆらぎがより強いことを意味します。
最も単純なインフレーションモデルでは、nsは一よりわずかに小さい値を取ると予測されます。具体的には、インフレーション期のポテンシャルエネルギーの形状によって、nsの値が決まります。緩やかな傾斜を持つポテンシャルで駆動されるインフレーションでは、nsは〇・九六から〇・九七程度になると予測されていました。
プランク衛星の最終データによる測定値は、ns=〇・九六五プラスマイナス〇・〇〇四でした。この測定精度は驚異的であり、nsが統計的に有意に一より小さいことを示しています。つまり、完全なスケール不変性は観測データによって明確に否定されたのです。
この測定結果が持つ意味は極めて深遠です。インフレーション以前に提唱されていた構造形成理論、たとえば宇宙ひも理論や質感シナリオなどは、異なるスペクトル指数を予測していました。これらの理論の多くは、nsが一より大きい「青方偏移スペクトル」を予測していたのです。プランクの観測は、これらの代替理論を決定的に排除しました。
さらに重要なのは、nsの測定値がインフレーションのポテンシャルに制約を与えることです。インフレーション理論には数多くのモデルが提唱されていますが、それぞれ異なるポテンシャルの形状を仮定しています。観測されたnsの値は、これらのモデルの多くを絞り込み、単純な単調減少ポテンシャルを持つモデルが最も有力であることを示唆しています。
具体的には、以下のようなインフレーションモデルが観測データと整合的であることが確認されています。
- 二次ポテンシャルモデル:ポテンシャルがインフレーション場の二乗に比例する最も単純なモデル
- スターロビンスキーモデル:重力理論の修正から導かれるモデルで、nsは約〇・九六と予測
- 自然インフレーション:対称性の破れに基づくモデル
- ヒルトップ型モデル:ポテンシャルの頂上付近で起こるインフレーション
一方で、観測データと矛盾することが判明し、排除されたモデルもあります。たとえば、べき乗則ポテンシャルの一部や、急峻な傾斜を持つポテンシャルによるインフレーションモデルなどです。このように、スペクトル指数の精密測定は、インフレーション理論の詳細を解明する強力なツールとなっています。
さらに高度な解析として、スペクトル指数の「走り」と呼ばれる量も測定されています。これは、スペクトル指数自体がスケールによってわずかに変化する効果です。現在の観測精度では、走りの検出は統計的に有意ではありませんが、将来のより精密な観測によって測定される可能性があります。走りの測定は、インフレーションポテンシャルの三次微分に関する情報を提供し、さらに詳細なモデル選択を可能にします。
スペクトル指数の測定は、温度ゆらぎだけでなく、偏光データや大規模構造の観測とも組み合わせることで、さらに強力な制約を与えることができます。複数の独立した観測データが同じnsの値を支持することは、測定の信頼性を高め、系統誤差の影響を低減します。
現在、次世代の観測計画が進められており、スペクトル指数の測定精度はさらに向上すると期待されています。地上望遠鏡による観測や、将来の宇宙ミッションによって、nsの不確かさは現在の数分の一にまで縮小される可能性があります。これにより、インフレーション理論のより詳細な検証が可能になるでしょう。
原始重力波探索の現状と課題
インフレーション理論の最も劇的な予測の一つが、原始重力波の存在です。重力波とは、時空の歪みが波として伝播する現象で、アインシュタインの一般相対性理論が予言していました。インフレーション期には、量子ゆらぎによって重力波が生成され、それが現在まで宇宙を満たしていると考えられています。
原始重力波の検出は、インフレーション理論にとって「聖杯」とも呼ばれる目標です。なぜなら、重力波の強度はインフレーション期のエネルギースケールを直接反映するからです。もし原始重力波が検出されれば、インフレーションがどれほど高いエネルギーで起こったかを知ることができ、素粒子物理学の大統一理論とのつながりも明らかになる可能性があります。
原始重力波を検出する最も有望な方法は、宇宙背景放射の偏光パターンを調べることです。重力波は、宇宙背景放射にBモード偏光と呼ばれる特殊な偏光パターンを生成します。このBモード偏光は、密度ゆらぎによって生じるEモード偏光とは本質的に異なり、渦状のパターンを持っています。
原始重力波の強度は、テンソル・スカラー比「r」というパラメータで表されます。このrの値が大きいほど、重力波の寄与が強く、検出が容易になります。初期のインフレーションモデルの中には、r=〇・一程度の比較的大きな値を予測するものもありましたが、観測データはそのような大きな値を否定してきました。
二〇一四年三月、南極のBICEP2実験チームが、Bモード偏光を検出したという衝撃的な発表を行いました。彼らは、r=〇・二という値を報告し、これは原始重力波の初検出として世界中の注目を集めました。もしこれが真実であれば、インフレーション理論の決定的な証拠となり、おそらくノーベル賞級の発見となったでしょう。
しかし、慎重な再解析の結果、BICEP2が検出した信号の大部分は、銀河内の塵による前景放射であることが判明しました。プランク衛星のデータと組み合わせた解析により、原始Bモード偏光の証拠は見つからず、rの上限値はr<〇・〇七と設定されました。この結果は、科学における慎重さと検証の重要性を示す教訓となりました。
現在進行中の観測プロジェクトは、さらに高い感度で原始Bモード偏光を探索しています。主要なプロジェクトには以下のようなものがあります。
- BICEP/Keck Array:南極で継続的に観測を実施し、現在最も厳しい上限値を提供
- South Pole Telescope:南極の大型望遠鏡による広域観測
- Atacama Cosmology Telescope:チリのアタカマ高地での精密観測
- Simons Observatory:次世代の地上観測施設として建設中
これらの実験は、異なる周波数帯域で観測を行い、前景放射を精密に除去する技術を開発しています。銀河の塵や電波放射は周波数依存性を持つため、複数の周波数での観測を組み合わせることで、これらの前景成分を宇宙背景放射の信号から分離できるのです。
地上観測の限界を超えるため、将来の宇宙ミッションも計画されています。LiteBIRDは日本主導の衛星計画で、二〇三〇年代の打ち上げを目指しています。この衛星は、r=〇・〇〇一という極めて高い感度での観測を目標としており、もし原始重力波が存在すれば、ほぼ確実に検出できると期待されています。
欧州宇宙機関も、CORE計画という次世代宇宙背景放射観測衛星を検討しています。これらの将来ミッションが実現すれば、原始重力波の検出、あるいは極めて厳しい上限値の設定が可能になるでしょう。
原始重力波の検出が困難である理由の一つは、その信号が極めて微弱であることです。最も単純なインフレーションモデルでさえ、rは〇・〇一以下と予測されており、これは技術的に非常に挑戦的な観測となります。さらに、前景放射の除去という難問もあります。銀河内の塵や電波放射によるBモード偏光は、原始Bモード偏光よりもはるかに強い可能性があり、両者を正確に分離することが成功の鍵となります。
それでも、原始重力波探索は今後も宇宙論の最重要課題であり続けるでしょう。もし検出に成功すれば、インフレーションのエネルギースケールが判明し、素粒子物理学との統一的理解が大きく前進します。一方、厳しい上限値が得られれば、それもまたインフレーションモデルを絞り込む重要な情報となります。検出の成否にかかわらず、この探索は宇宙の起源の理解を深める上で不可欠なのです。
