バリオン生成の謎:なぜ宇宙には物質だけが残ったのか

宇宙

目次


宇宙における物質と反物質の非対称性

私たちが住む宇宙は、物質で満たされています。星々、惑星、銀河、そして私たち自身の体に至るまで、すべては陽子や中性子といったバリオンから構成されています。しかし、現代物理学の基本原理に従えば、ビッグバンの瞬間には物質と反物質が等量生成されたはずです。もしそうであれば、物質と反物質は互いに対消滅し、宇宙には光子だけが残るはずでした。

ところが現実の宇宙を観測すると、反物質はほとんど存在していません。宇宙線の中にわずかな反陽子や陽電子が見つかる程度で、反物質でできた天体や銀河は観測されていないのです。この事実は、宇宙の歴史のどこかで物質と反物質の間に非対称性が生じたことを意味しています。

現在の観測によれば、宇宙に存在する光子約十億個に対して、バリオンは一個程度の割合で存在しています。この比率は宇宙マイクロ波背景放射の詳細な観測や、ビッグバン元素合成理論との整合性から精密に決定されています。具体的には、バリオン対光子比は約六十億分の一という値が得られており、この微小な非対称性こそが現在の宇宙の物質的存在を可能にしているのです。

では、なぜこのような非対称性が生じたのでしょうか。この問いに答えることは、宇宙の起源と進化を理解する上で最も重要な課題の一つとなっています。物質と反物質が完全に対称的に生成されたとすれば、それらは互いに消滅し合い、現在の宇宙に物質構造は存在しなかったでしょう。私たちの存在そのものが、この非対称性の証拠なのです。

ビッグバンと物質創生の理論

宇宙は約百三十八億年前、超高温・超高密度の状態から始まったと考えられています。ビッグバン直後の宇宙は、温度が一兆度を超える極限状態にあり、クォークやレプトンといった素粒子が自由に飛び交うプラズマ状態でした。この時期には、粒子と反粒子の対生成と対消滅が激しく繰り返されていました。

ビッグバンから約一マイクロ秒後、宇宙の温度が約一兆度まで下がると、クォークは互いに結合してバリオンを形成し始めました。この過程を「クォーク・ハドロン相転移」と呼びます。もし物質と反物質が完全に等量であれば、バリオンと反バリオンはすべて対消滅し、光子だけが残ったはずです。しかし実際には、わずかな非対称性が存在したため、約十億組のバリオン・反バリオン対が消滅した後、一個のバリオンが生き残りました。

この生き残ったバリオンが、現在の宇宙を構成するすべての物質の源となっているのです。ビッグバンから約三分後になると、宇宙の温度は約十億度まで下がり、陽子と中性子が結合して軽元素の原子核を形成する「ビッグバン元素合成」が始まりました。この過程で、水素、ヘリウム、リチウムといった軽元素が生成されました。

ビッグバン元素合成理論は、現在観測される宇宙の軽元素存在比を驚くほど正確に説明します。特にヘリウムの存在比は質量比で約二十五パーセントと予測されますが、これは観測値と見事に一致しています。この成功は、ビッグバン理論の強力な証拠の一つとなっています。しかし同時に、この理論が機能するためには、ビッグバン直後に既にバリオンの非対称性が確立されていなければならないことも示しています。

サハロフの三条件

一九六七年、ソビエトの物理学者アンドレイ・サハロフは、宇宙にバリオン非対称性を生成するために必要な三つの条件を提唱しました。これらは「サハロフの三条件」として知られ、現在でもバリオン生成理論の基礎となっています。

第一の条件は「バリオン数を破る相互作用の存在」です。バリオン数とは、バリオンの個数を表す量子数であり、通常の素粒子相互作用では保存されます。しかし、バリオン数が常に保存されるならば、ビッグバン直後にバリオン数がゼロであった宇宙で、バリオン過剰を生成することはできません。したがって、何らかのプロセスでバリオン数が変化する必要があるのです。

第二の条件は「C対称性とCP対称性の破れ」です。C対称性とは、粒子を反粒子に置き換えても物理法則が変わらないという対称性です。CP対称性は、C対称性とパリティ変換(鏡像対称性)を組み合わせたものです。もしCP対称性が完全に保たれていれば、バリオンを生成する反応と反バリオンを生成する反応が同じ確率で起こるため、非対称性は生じません。CP対称性が破れることで初めて、物質生成が反物質生成よりも優勢になる可能性が生まれるのです。

第三の条件は「熱平衡状態からのずれ」です。熱平衡状態では、正反応と逆反応の速度が釣り合っており、バリオン数の偏りは洗い流されてしまいます。非対称性を維持するためには、系が熱平衡から外れている必要があります。これは宇宙の急速な膨張や、相転移といった非平衡プロセスによって実現される可能性があります。

これら三つの条件はすべて、バリオン非対称性の生成に不可欠です。一つでも欠ければ、観測される物質優勢の宇宙は実現しません。興味深いことに、標準模型にはこれらの条件を満たす要素が含まれていますが、観測されるバリオン非対称性の大きさを説明するには不十分であることが知られています。

CP対称性の破れとは何か

CP対称性の破れを理解するには、まず対称性の概念を把握する必要があります。物理学における対称性とは、ある変換操作を行っても物理法則が変わらないという性質を指します。C対称性(電荷共役対称性)は粒子と反粒子を入れ替える操作、P対称性(パリティ対称性)は空間座標を反転させる操作に対応します。

長い間、物理学者たちは自然界の基本法則がこれらの対称性を完全に保つと信じていました。しかし一九五六年、李政道と楊振寧は弱い相互作用においてP対称性が破れる可能性を指摘しました。翌年、呉健雄らの実験によってこの予測が実証され、物理学界に衝撃を与えました。

P対称性が破れているならば、C対称性も破れている可能性があります。実際、弱い相互作用ではC対称性も破れていることが確認されました。しかし、CP対称性(CとPを組み合わせた対称性)は保たれていると考えられていました。つまり、粒子を反粒子に置き換え、さらに鏡像反転を行えば、元の法則が回復すると考えられたのです。

ところが一九六四年、クローニンとフィッチは中性K中間子の崩壊実験において、CP対称性が破れている証拠を発見しました。この発見は二十世紀物理学における最も重要な実験結果の一つとされています。CP対称性の破れは、物質と反物質の間に本質的な非対称性が存在することを意味し、サハロフの条件の一つを満たす現象として注目されました。

CP対称性の破れは、粒子の崩壊過程や振動現象において観測されます。例えば、ある粒子が特定の最終状態に崩壊する確率と、その反粒子が対応する反粒子最終状態に崩壊する確率が異なる場合、CP対称性が破れていることになります。この微小な差が、宇宙初期においてバリオン非対称性を生成する鍵となる可能性があるのです。

標準理論における対称性の破れ

素粒子物理学の標準模型は、クォーク、レプトン、ゲージボソンの三世代構造と、それらの相互作用を記述する理論体系です。この理論は実験的に極めて高い精度で検証されており、現代物理学の最も成功した理論の一つとなっています。標準模型には、CP対称性を破る機構が組み込まれています。

標準模型におけるCP対称性の破れは、主に小林・益川機構によって説明されます。一九七三年、小林誠と益川敏英は、クォークが三世代存在すれば自然にCP対称性の破れが生じることを示しました。この予言は、後に第三世代のクォーク(トップクォークとボトムクォーク)の発見によって実証され、二〇〇八年にはノーベル物理学賞が授与されました。

小林・益川理論では、異なる世代のクォーク間の混合を記述する「CKM行列」(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa行列)に複素位相が含まれることで、CP対称性の破れが生じます。この行列は三行三列の複素ユニタリ行列であり、クォークの弱い相互作用における世代間遷移の確率を決定します。クォークが二世代しかない場合、CKM行列に複素位相を導入することはできず、CP対称性は保たれます。しかし三世代以上になると、複素位相の存在が可能になり、CP対称性の破れが実現するのです。

実験的には、B中間子ファクトリーと呼ばれる加速器実験において、B中間子の崩壊過程でのCP対称性の破れが精密に測定されてきました。日本のBelleグループやアメリカのBaBarグループによる観測結果は、小林・益川理論の予測と驚くほど一致しています。これらの実験は、標準模型におけるCP対称性の破れの機構を確立する上で決定的な役割を果たしました。

しかし、標準模型で説明できるCP対称性の破れの大きさは、観測されるバリオン非対称性を説明するには約十桁も小さすぎることが知られています。つまり、標準模型だけでは現在の宇宙の物質優勢を説明できないのです。このことは、標準模型を超える新しい物理が存在することを強く示唆しています。

クォークセクターでのCP対称性の破れ

クォークセクターにおけるCP対称性の破れは、主にB中間子やK中間子といった粒子の崩壊過程で観測されます。これらの中間子は、クォークと反クォークの束縛状態であり、弱い相互作用によって崩壊します。その崩壊過程において、粒子と反粒子の振る舞いに微妙な違いが現れるのです。

B中間子系では、ボトムクォークを含む中間子が崩壊する際に、複数の経路が存在します。これらの経路の干渉によって、CP対称性の破れが増幅される効果があります。具体的には、B中間子が特定の最終状態に崩壊する確率と、反B中間子が対応する反粒子最終状態に崩壊する確率の間に、数パーセントから数十パーセントの差が観測されることがあります。

また、中性B中間子は時間とともに粒子と反粒子の間を振動します。この振動現象においてもCP対称性の破れが観測されます。B中間子が反B中間子に変わる速度と、その逆の過程の速度が異なることが実験的に確認されているのです。この現象は「混合誘起CP対称性の破れ」と呼ばれ、標準模型の予測と非常によく一致しています。

K中間子系では、すでに一九六〇年代にCP対称性の破れが発見されていましたが、その精密測定は現在も続けられています。特に、K中間子の稀崩壊過程における測定は、標準模型の精密検証や新物理の探索において重要な役割を果たしています。K中間子系とB中間子系でのCP対称性の破れの測定値を組み合わせることで、CKM行列の要素を高精度で決定することができるのです。

しかしながら、これらのクォークセクターでのCP対称性の破れは、バリオン非対称性の起源としては不十分です。その理由の一つは、クォーク・ハドロン相転移の際に、CP対称性の破れの効果が十分に大きくないことです。また、サハロフの第三条件である「熱平衡からのずれ」も、標準模型の電弱相転移では十分に満たされないことが理論的に示されています。したがって、バリオン生成のメカニズムを説明するには、標準模型を超える新しい物理が必要だと考えられているのです。

レプトンセクターにおけるCP対称性の破れ

クォークセクターだけでなく、レプトンセクターにおいてもCP対称性の破れが存在する可能性があります。レプトンとは、電子やミュー粒子、タウ粒子、そしてそれぞれに対応するニュートリノを指します。特にニュートリノは、その特異な性質から、バリオン非対称性の起源に深く関わっている可能性が指摘されています。

ニュートリノには三つの世代があり、それぞれ電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノと呼ばれています。これらのニュートリノは、空間を伝播する際に互いに変換し合う「ニュートリノ振動」という現象を示します。一九九八年、スーパーカミオカンデ実験によってニュートリノ振動が初めて観測され、ニュートリノが質量を持つことが確立されました。この発見は、標準模型を超える物理の最初の明確な証拠となり、二〇一五年にはノーベル物理学賞が授与されました。

ニュートリノ振動の仕組みは、クォークセクターでのCKM行列と類似した「PMNS行列」(Pontecorvo-Maki-Nakagawa-Sakata行列)によって記述されます。この行列にも複素位相が含まれる可能性があり、それがレプトンセクターでのCP対称性の破れを引き起こします。現在、世界各地のニュートリノ実験施設で、この複素位相を精密に測定する試みが進められています。

日本のT2K実験や、アメリカのNOvA実験では、加速器で生成したニュートリノビームを数百キロメートル離れた検出器で観測することで、ニュートリノ振動のパラメータを測定しています。これらの実験では、ニュートリノが反ニュートリノに変換する確率と、反ニュートリノがニュートリノに変換する確率を比較することで、CP対称性の破れを探索しています。最近の測定結果は、レプトンセクターでもCP対称性が破れている可能性を示唆していますが、統計的確実性を高めるためには、さらなるデータの蓄積が必要です。

レプトンセクターでのCP対称性の破れが確認されれば、それは宇宙のバリオン非対称性の起源を理解する上で重要な手がかりとなります。特に、次に述べるレプトジェネシス機構において、レプトンセクターのCP対称性の破れは決定的な役割を果たすのです。

レプトジェネシス理論の基礎

レプトジェネシス理論は、宇宙初期にレプトン数の非対称性が生成され、それがバリオン非対称性に転換されるという仮説です。この理論は一九八六年に福来正孝によって提唱され、現在ではバリオン生成の最も有力なシナリオの一つとされています。レプトジェネシス理論の魅力は、ニュートリノ質量の起源とバリオン非対称性の起源を統一的に説明できる点にあります。

レプトジェネシス理論の鍵となるのは、「右巻きニュートリノ」と呼ばれる仮想的な粒子の存在です。標準模型に含まれるニュートリノは左巻きのみですが、ニュートリノが質量を持つためには、右巻きニュートリノが存在する必要があると考えられています。この右巻きニュートリノは通常の弱い相互作用に参加しないため、極めて観測が困難です。しかし、その質量は非常に重く、ビッグバン直後の高温状態でのみ生成されたと考えられています。

レプトジェネシス機構では、まず宇宙初期に重い右巻きニュートリノが熱的に生成されます。これらの重いニュートリノは不安定で、標準模型のレプトンとヒッグス粒子に崩壊します。この崩壊過程において、レプトンと反レプトンの生成比率に差が生じることで、レプトン数の非対称性が生成されるのです。この非対称性の生成には、右巻きニュートリノのCP対称性を破る崩壊が必要となります。

生成されたレプトン非対称性は、そのままではバリオン非対称性にはなりません。しかし、宇宙の温度が十分高い状態では、「スファレロン過程」と呼ばれる量子異常効果が働きます。スファレロン過程は、バリオン数とレプトン数を変化させる特殊な量子トンネル効果であり、バリオン数プラスレプトン数は変化させずに、バリオン数マイナスレプトン数を変化させます。この過程により、レプトン非対称性の一部がバリオン非対称性に転換されるのです。

レプトジェネシス理論が成功するためには、いくつかの条件が満たされる必要があります。まず、右巻きニュートリノの質量は十億ギガ電子ボルト程度以上である必要があり、これは宇宙初期の非常に高温の時期に対応します。また、右巻きニュートリノのCP対称性の破れが十分大きくなければなりません。さらに、レプトン非対称性が生成された後、スファレロン過程によってバリオン非対称性に転換される前に、系が十分に非平衡状態にある必要があります。

シーソー機構とニュートリノ質量

レプトジェネシス理論と密接に関連するのが、ニュートリノ質量の起源を説明する「シーソー機構」です。シーソー機構は、なぜニュートリノの質量が他の素粒子に比べて極端に小さいのかを説明する理論的枠組みです。この機構では、重い右巻きニュートリノの存在が、観測される軽いニュートリノの質量を自然に説明します。

シーソー機構の基本的な考え方は以下のようなものです。ニュートリノには、標準模型に含まれる左巻きニュートリノと、それとは別に存在する右巻きニュートリノがあります。これら二つのニュートリノは、ヒッグス場を介して混合します。もし右巻きニュートリノの質量が非常に重ければ、この混合の結果、左巻きニュートリノの有効質量は右巻きニュートリノの質量に反比例して小さくなります。まるでシーソーの片側が重いと反対側が軽くなるように、右巻きニュートリノが重いほど、左巻きニュートリノは軽くなるのです。

具体的には、右巻きニュートリノの質量が十億ギガ電子ボルト程度であれば、観測されている左巻きニュートリノの質量である〇・〇五電子ボルト程度を自然に説明できます。この質量比は実に二十桁もの差があり、シーソー機構がなければこのような極端な質量階層を説明することは困難です。

シーソー機構には、いくつかの変種が提案されています。最も単純な「タイプI シーソー」では、右巻きニュートリノのみを導入します。「タイプII シーソー」では、さらに三重項のヒッグス粒子を導入し、「タイプIII シーソー」では、右巻きニュートリノの代わりに三重項のフェルミオンを導入します。これらの異なるシーソー機構は、それぞれ異なる実験的特徴を持ち、将来の実験によって区別できる可能性があります。

シーソー機構とレプトジェネシス理論を組み合わせることで、ニュートリノの質量とバリオン非対称性という、一見無関係に見える二つの謎を統一的に説明できます。この美しい理論的構造は、素粒子物理学と宇宙論を結びつける重要な例となっています。現在進行中のニュートリノ実験や、将来の加速器実験によって、この理論の検証が進められることが期待されています。

電弱バリオン生成理論

レプトジェネシス以外にも、バリオン非対称性を生成する機構がいくつか提案されています。その一つが「電弱バリオン生成」と呼ばれる理論です。この理論では、宇宙が電弱相転移を経験する際に、バリオン非対称性が直接生成されると考えます。

電弱相転移とは、宇宙の温度が約百ギガ電子ボルトまで下がったときに起こる相転移です。この温度以下では、ヒッグス場が真空期待値を獲得し、W・Zボソンや荷電粒子が質量を持つようになります。もしこの相転移が一次相転移であれば、真空の泡が形成され、それが膨張して宇宙全体を埋め尽くします。この泡の壁の近傍では、熱平衡状態からのずれが生じ、サハロフの第三条件が満たされます。

電弱バリオン生成が機能するためには、標準模型を超える新しいCP対称性の破れの源が必要です。なぜなら、標準模型のCP対称性の破れだけでは、観測されるバリオン非対称性を説明するには不十分だからです。また、電弱相転移が十分強い一次相転移である必要がありますが、標準模型では相転移が弱すぎることが知られています。したがって、電弱バリオン生成理論を実現するには、ヒッグスセクターの拡張や、新しい粒子の導入が必要となります。

超対称性理論は、電弱バリオン生成の有力な候補の一つです。超対称性理論では、すべての粒子に対して超対称パートナー粒子が存在し、これらの新粒子がヒッグスセクターを拡張します。また、超対称性理論には新しいCP対称性の破れの源が含まれており、電弱バリオン生成に必要な条件を満たす可能性があります。しかし、現在までのところ、大型ハドロン衝突型加速器での実験では超対称性粒子は発見されておらず、電弱バリオン生成の実現可能性には疑問が持たれています。

それでも、電弱バリオン生成理論は、バリオン非対称性の起源を探る上で重要な選択肢の一つです。この理論の魅力は、バリオン生成が比較的低いエネルギースケールで起こるため、将来の加速器実験や精密測定によって検証可能な予言を与える点にあります。レプトジェネシスが宇宙初期の極めて高エネルギー現象であるのに対し、電弱バリオン生成は実験的にアクセス可能なエネルギー領域で起こる可能性があるのです。

大統一理論とバリオン生成

さらにスケールの大きな理論として、「大統一理論」におけるバリオン生成があります。大統一理論とは、電磁気力、弱い力、強い力という三つの基本的な力を統一的に記述しようとする理論です。この理論では、これらの力は高エネルギーでは一つの力として振る舞い、エネルギーが下がるにつれて分離すると考えられています。

大統一理論では、クォークとレプトンを相互に変換する新しい相互作用が存在します。この相互作用を媒介する粒子は「Xボソン」や「Yボソン」と呼ばれ、その質量は約十の十五乗ギガ電子ボルトという途方もなく重いものです。これらの粒子は、バリオン数とレプトン数を破る崩壊をすることができ、サハロフの第一条件を自然に満たします。

宇宙初期の極めて高温状態では、これらの重い粒子が熱的に生成されました。宇宙の膨張によって温度が下がると、Xボソンは崩壊し始めます。この崩壊過程でCP対称性の破れがあれば、バリオンと反バリオンの生成比率に差が生じ、バリオン非対称性が生成されます。また、崩壊が宇宙膨張よりも遅ければ、熱平衡からのずれという条件も満たされます。

大統一理論によるバリオン生成の予言は、陽子崩壊という検証可能な現象と結びついています。もし大統一理論が正しければ、陽子は有限の寿命を持ち、最終的には崩壊するはずです。現在、スーパーカミオカンデをはじめとする大規模な地下検出器で陽子崩壊の探索が行われていますが、今のところ陽子崩壊は観測されていません。この観測結果は、陽子の寿命が少なくとも十の三十四乗年以上であることを示しており、単純な大統一理論には強い制限を与えています。

それでも、大統一理論の枠組みでバリオン生成を説明する試みは続けられています。理論を修正することで、陽子崩壊の制限と整合性を保ちながら、観測されるバリオン非対称性を説明する可能性が探られています。大統一理論は、自然界の力の統一という美しい概念を提供するだけでなく、バリオン生成の謎にも光を当てる可能性を秘めているのです。

実験的検証への挑戦

バリオン生成の理論を検証することは、現代物理学における最大の挑戦の一つです。宇宙初期の超高エネルギー現象を直接実験室で再現することは不可能ですが、間接的な証拠を探す様々な実験が世界中で行われています。これらの実験は、理論の予測を検証し、新しい物理現象を発見する可能性を秘めています。

加速器実験では、高エネルギーの粒子衝突によって新粒子を探索しています。特に欧州原子核研究機構の大型ハドロン衝突型加速器では、標準模型を超える物理の兆候を探す実験が継続されています。超対称性粒子や新しいヒッグス粒子、さらには暗黒物質の候補粒子など、バリオン生成に関連する可能性のある新粒子の発見が期待されています。これらの発見は、電弱バリオン生成や大統一理論の検証に直結する可能性があります。

ニュートリノ実験もまた、重要な役割を果たしています。日本のハイパーカミオカンデ計画や、国際的な大型ニュートリノ検出器の建設プロジェクトでは、ニュートリノ振動のパラメータをさらに精密に測定し、レプトンセクターでのCP対称性の破れを確定することを目指しています。もしレプトジェネシス理論が正しければ、観測されるCP対称性の破れと、理論から予測される右巻きニュートリノのパラメータとの間に関連性が見出されるはずです。

陽子崩壊の探索も続けられています。スーパーカミオカンデをはじめとする大規模な地下検出器では、五万トンもの超純水を用いて陽子崩壊の兆候を監視しています。陽子崩壊が観測されれば、大統一理論の直接的な証拠となり、バリオン生成のメカニズムに重要な制約を与えることになります。現在までに陽子崩壊は観測されていませんが、この結果自体が理論に対する重要な制限となっています。

宇宙論的観測もまた、バリオン生成理論を検証する上で不可欠です。宇宙マイクロ波背景放射の精密観測や、銀河分布の大規模構造の解析から、宇宙初期の物理過程に関する情報を引き出すことができます。特に、プランク衛星による観測結果は、バリオン対光子比を極めて高い精度で決定し、理論が説明すべき目標値を明確にしました。

反物質の探索と宇宙における分布

バリオン非対称性の謎を解く上で、反物質が宇宙にどの程度存在するのかを知ることは極めて重要です。もし宇宙のどこかに反物質でできた領域が存在すれば、バリオン生成の理論は根本的に見直す必要があります。現在、様々な方法で反物質の探索が行われています。

国際宇宙ステーションに設置されたアルファ磁気分光器は、宇宙線中の反粒子を精密に測定しています。この装置は、陽電子や反陽子の存在比やエネルギー分布を詳細に調べることで、それらの起源を探っています。これまでの観測では、宇宙線中に含まれる反粒子は、主に通常の物質同士の衝突や、パルサーのような高エネルギー天体からの放出によって生成されたものと考えられています。反物質天体の存在を示す決定的な証拠は、今のところ見つかっていません。

もし宇宙に物質領域と反物質領域が存在し、それらが接触していれば、境界面で激しい対消滅が起こるはずです。この対消滅では、特徴的なエネルギーを持つガンマ線が放出されます。ガンマ線天文台では、このような対消滅の兆候を探していますが、現在まで有意な信号は検出されていません。この観測結果は、少なくとも観測可能な宇宙の範囲内では、大規模な反物質領域が存在しないことを強く示唆しています。

地上の実験室では、反物質を人工的に生成し、その性質を詳しく調べる研究も進められています。欧州原子核研究機構のアルファ実験では、反水素原子を生成し、その分光学的性質を測定しています。物質と反物質の性質が完全に対称であれば、水素と反水素のスペクトルは完全に一致するはずです。現在までの測定では、両者の間に違いは見つかっていませんが、測定精度を向上させることで、微小な違いが発見される可能性があります。

これらの実験結果を総合すると、現在の宇宙は圧倒的に物質優勢であり、反物質は極めて稀にしか存在しないことが明らかになっています。この事実は、宇宙初期にバリオン非対称性が生成されたという考えを強く支持しています。

標準模型を超える物理への示唆

バリオン生成の問題は、標準模型が完全な理論ではなく、より根本的な理論の近似であることを示す重要な証拠の一つです。標準模型は素粒子物理学の驚くべき成功例ですが、いくつかの基本的な問いには答えられません。バリオン非対称性の起源は、その代表的な例なのです。

標準模型を拡張する理論として、超対称性理論が広く研究されています。超対称性理論では、各粒子に超対称パートナーが存在し、これらの新粒子が電弱バリオン生成を可能にする可能性があります。また、超対称性理論には暗黒物質の有力な候補も含まれており、宇宙の物質構成を統一的に説明できる魅力があります。ただし、大型ハドロン衝突型加速器での探索では、予想されていたエネルギー範囲で超対称性粒子が発見されておらず、理論に対する制約が強まっています。

ストリング理論やブレーンワールド理論といったより野心的な理論も、バリオン生成に新しい視点を提供する可能性があります。これらの理論では、私たちの宇宙が高次元空間の中の四次元的な構造(ブレーン)であると考えます。余剰次元の存在や、ブレーン間の相互作用が、バリオン生成に影響を与える可能性が指摘されています。

レプトジェネシス理論は、シーソー機構と組み合わせることで、ニュートリノ質量とバリオン非対称性を同時に説明します。この理論的枠組みは、標準模型を拡張する最も自然な方向の一つと考えられています。右巻きニュートリノの質量スケールは直接観測できないほど高エネルギーですが、低エネルギーでの観測可能な効果、例えばニュートリノを伴わない二重ベータ崩壊などを通じて、間接的に検証できる可能性があります。

大統一理論は、自然界の力の統一という美しい概念を提供し、バリオン生成の自然な舞台を用意します。しかし、陽子崩壊が観測されていないことや、ゲージ結合定数の統一に関する精密な計算との整合性など、解決すべき課題も多く残されています。これらの課題を克服するため、様々な大統一理論の変種が提案されています。

宇宙論との深い関わり

バリオン生成の研究は、素粒子物理学と宇宙論を結びつける重要な接点となっています。宇宙の歴史を理解するには、素粒子の基本法則を知る必要があり、逆に素粒子の性質を完全に理解するには、宇宙初期の極限状態での振る舞いを考慮しなければなりません。

インフレーション理論は、ビッグバン直後の宇宙が急激な加速膨張を経験したとする理論です。この理論は、宇宙の一様性や平坦性といった観測事実を自然に説明します。バリオン生成は、インフレーション終了後の再加熱期や、その後の宇宙進化の過程で起こったと考えられています。インフレーション中に生成される粒子や、インフレーション場の崩壊過程が、バリオン生成に影響を与える可能性も研究されています。

暗黒物質の存在もまた、バリオン生成と関連している可能性があります。宇宙の物質の大部分は暗黒物質であり、通常の物質(バリオン)は全体の約十五パーセントにすぎません。一部の理論では、バリオン非対称性と暗黒物質の生成が同じメカニズムで説明できると提案されています。このような理論は「非対称暗黒物質」と呼ばれ、活発に研究されています。

宇宙マイクロ波背景放射の詳細な観測は、宇宙初期のバリオン密度を高精度で決定しました。この観測値は、バリオン生成理論が説明すべき目標を明確にしています。プランク衛星による最新の観測では、バリオン密度パラメータが約五パーセントの精度で決定されており、理論モデルに厳しい制約を与えています。

また、宇宙の大規模構造の形成においても、バリオンの役割は重要です。銀河や銀河団の形成過程を理解するには、バリオンの密度や分布を正確に知る必要があります。バリオン生成の理論は、これらの宇宙構造の種となった初期条件を提供するのです。

未解決の問題と今後の展望

バリオン生成の謎は、現代物理学における最も深遠な問題の一つとして、依然として完全には解決されていません。いくつかの有力な理論的シナリオが提案されていますが、決定的な証拠はまだ得られていません。今後の研究には、理論と実験の両面で多くの課題が残されています。

理論面での主な課題

  • 標準模型を超える物理の具体的な形を特定すること
  • レプトジェネシスにおける右巻きニュートリノの質量スケールと、低エネルギーでの観測可能な効果との関係を明確にすること
  • 電弱バリオン生成を実現するための、標準模型の最小限の拡張を見つけること
  • バリオン生成と暗黒物質生成の関連性を探ること
  • インフレーション理論とバリオン生成の整合的な描像を構築すること

実験面での主な課題

  • レプトンセクターでのCP対称性の破れを確定すること
  • ニュートリノを伴わない二重ベータ崩壊の探索を進め、ニュートリノの性質を解明すること
  • 超対称性粒子や新しいヒッグス粒子など、標準模型を超える粒子を発見すること
  • 陽子崩壊の探索を継続し、大統一理論を検証すること
  • 宇宙観測を通じて、バリオン密度や初期宇宙の状態をさらに精密に決定すること

次世代の実験施設が、これらの課題に挑んでいます。ハイパーカミオカンデやDUNEといった大型ニュートリノ検出器、高輝度大型ハドロン衝突型加速器、次世代の宇宙望遠鏡などが、バリオン生成の謎を解く鍵を握っています。これらの実験が稼働を始める今後十年から二十年の間に、大きな進展が期待されています。

バリオン生成の研究は、私たちの存在そのものの起源を問う探求です。なぜ宇宙には物質だけが残り、私たちが存在できるようになったのか。この問いに対する答えは、素粒子物理学と宇宙論の最前線で、着実に明らかになりつつあります。完全な解明にはまだ時間がかかるかもしれませんが、この探求の過程で得られる知見は、自然界の深い理解へと私たちを導いてくれるでしょう。

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