目次
はじめに:宇宙の相変化とは
私たちが日常的に目にする水の相変化、つまり氷が水になり、水が水蒸気になる現象は、物質の状態が温度によって劇的に変化する典型的な例です。実は、宇宙の歴史においても、同様に劇的な相変化が起こってきました。これを「位相転移」と呼びます。
ビッグバンから約138億年が経過した現在の宇宙は、私たちが知る物理法則に支配された安定した状態にあります。しかし、誕生直後の宇宙は想像を絶するほど高温高密度の状態にあり、現在とはまったく異なる物理法則が支配する世界でした。この初期宇宙から現在の宇宙へと至る過程で、いくつかの重要な位相転移が発生し、それぞれの転移が宇宙の性質を根本的に変えてきたのです。
特に注目すべきは「対称性の自発的破れ」という現象です。これは、宇宙の冷却に伴って、それまで対称的だった物理法則が非対称な状態へと移行する過程を指します。この対称性の破れによって、素粒子が質量を獲得し、現在私たちが観測する四つの基本的な力、つまり重力、電磁気力、強い力、弱い力が分離して現れました。
本記事では、初期宇宙で起こった位相転移、特に電弱相転移を中心に、対称性の自発的破れのメカニズム、バブル核形成の過程、そして一次転移の特徴について詳しく解説していきます。これらの現象を理解することは、宇宙の進化を理解する上で不可欠であり、また現代物理学の最先端の研究テーマでもあります。
位相転移の基礎概念
位相転移を理解するために、まず身近な例から考えてみましょう。水を例にとると、氷から水への転移は温度が零度を超えると起こります。この転移の際、氷の結晶構造が崩れ、分子の配列が規則的な状態から不規則な液体状態へと変化します。これは「一次相転移」と呼ばれるタイプの転移で、転移点で潜熱の放出が伴います。
物理学では、位相転移を「秩序変数」という概念を用いて記述します。秩序変数とは、その系の状態を特徴づける物理量のことで、水の場合は密度や分子配列の規則性などが該当します。高温状態では秩序変数がゼロ、または小さな値をとり、低温状態では有限の値をとるという特徴があります。
宇宙における位相転移も、基本的には同じ原理に従います。ただし、変化するのは温度と圧力だけでなく、場の理論で記述される「真空の状態」そのものです。素粒子物理学における真空とは、何も存在しない空っぽの空間ではなく、様々な場が最低エネルギー状態にある状態を指します。この真空の状態が温度によって変化することが、宇宙における位相転移の本質なのです。
位相転移には大きく分けて「一次転移」と「二次転移」があります。一次転移では、転移点で秩序変数が不連続に変化し、潜熱の放出を伴います。水の凝固や蒸発がこれに該当します。一方、二次転移では秩序変数は連続的に変化しますが、その微分量が不連続になります。磁石が温度上昇によって磁性を失うキュリー転移などが二次転移の例です。
初期宇宙における位相転移が一次転移であったか二次転移であったかは、宇宙の進化を理解する上で極めて重要な問題です。なぜなら、転移のタイプによって、重力波の発生や物質と反物質の非対称性の生成など、観測可能な現象が大きく異なるからです。現在の標準的な素粒子物理学モデルでは、電弱相転移は二次転移またはクロスオーバーであると予測されていますが、標準模型を超える新しい物理があれば一次転移になる可能性も指摘されています。
初期宇宙における対称性
対称性とは、ある操作を行っても系の性質が変わらないという性質のことです。例えば、完全な球は、どの角度から見ても同じ形をしているため、回転対称性を持っています。物理学における対称性は、自然界を支配する基本法則の根幹をなす概念です。
初期宇宙の超高温状態では、現在の宇宙よりもはるかに高い対称性が保たれていました。特に重要なのが「ゲージ対称性」と呼ばれる対称性です。ゲージ対称性とは、場の理論における特定の変換操作に対して物理法則が不変であるという性質を指します。この対称性から、電磁気力や弱い力、強い力といった基本的な相互作用が導かれます。
ビッグバン直後の宇宙では、温度が約10の15乗ケルビン以上という想像を絶する高温状態にありました。この極限的な環境下では、電磁気力と弱い力は統一された一つの力、つまり「電弱力」として振る舞っていました。この状態では、光子を媒介する電磁気力と、Wボソンおよびゼットボソンを媒介する弱い力の間に本質的な違いはなく、これらは同じ電弱ゲージ対称性によって記述される一つの力だったのです。
さらに高温の状態、つまりビッグバンの極初期においては、強い力も含めて統一されていた可能性があります。これは大統一理論と呼ばれる仮説的な理論で予言されており、温度が約10の28乗ケルビンという途方もない高温状態で実現していたと考えられています。ただし、この段階の宇宙物理学は実験的検証が困難であり、理論的な推測の域を出ていません。
対称性が高い状態では、素粒子は質量を持ちません。これは一見奇妙に思えるかもしれませんが、質量の存在自体が対称性を破る要因だからです。初期宇宙の高温状態では、すべての素粒子が光速で飛び回り、エネルギーと物質の区別も曖昧な、まさに混沌とした状態でした。この対称性の高い状態から、対称性が破れた現在の宇宙へと移行する過程こそが、位相転移なのです。
自発的対称性の破れのメカニズム
対称性の自発的破れとは、物理法則自体は対称性を保ったまま、系が選択する状態が非対称になる現象を指します。これを理解するために、よく用いられるのが「メキシカンハット型ポテンシャル」という概念です。
想像してください。底が平らではなく、中央が盛り上がっていて周囲がくぼんだ、メキシコの帽子のような形をした面があるとします。この面の上にボールを置いた場合、ボールは不安定な頂上から転がり落ち、くぼんだ部分のどこかに落ち着きます。重要なのは、物理法則はすべての方向に対して対称であるにもかかわらず、ボールが選ぶ最終的な位置は特定の一方向に決まってしまうということです。
このメキシカンハット型ポテンシャルは、場の理論におけるヒッグス場のポテンシャルエネルギーの形を表しています。ヒッグス場とは、1964年にピーター・ヒッグスらによって提唱された素粒子に質量を与えるための場です。2012年に欧州原子核研究機構のラージハドロンコライダーで発見されたヒッグスボソンは、このヒッグス場の量子的な励起状態に対応する粒子です。
高温の初期宇宙では、ヒッグス場のポテンシャルエネルギーの形は異なっていました。熱的な効果により、ポテンシャルの中央部分が最も低いエネルギー状態となり、ヒッグス場の期待値はゼロでした。この状態では電弱対称性が保たれており、素粒子は質量を持ちませんでした。
宇宙が膨張して冷却していくと、ヒッグス場のポテンシャルの形が変化し、中央が盛り上がってメキシカンハット型になります。このとき、ヒッグス場は不安定な中央の状態から、周囲のくぼんだ部分へと転移します。この転移こそが電弱相転移であり、ヒッグス場が有限の期待値を獲得することで、電弱対称性が自発的に破れるのです。
ヒッグス場が有限の値をとると、この場と相互作用する素粒子は質量を獲得します。これは、素粒子がヒッグス場の海の中を進む際に抵抗を受けるようなものと理解できます。相互作用が強い素粒子ほど大きな質量を獲得し、相互作用しない素粒子、例えば光子は質量を持ちません。このメカニズムにより、Wボソンやゼットボソンは約80から90ギガ電子ボルトという大きな質量を獲得し、弱い力が短距離力になったのです。
対称性の自発的破れは、単に素粒子に質量を与えただけではありません。これにより、それまで統一されていた電弱力が、長距離力である電磁気力と短距離力である弱い力に分離しました。この分離が、現在の宇宙における物理現象の多様性を生み出す基盤となっているのです。温度が約100ギガ電子ボルト、つまり約10の15乗ケルビンまで下がったとき、宇宙は誕生後わずか10のマイナス11乗秒程度でこの劇的な転移を経験したと考えられています。
電弱相転移のダイナミクス
電弱相転移は、宇宙が誕生してから約10のマイナス11乗秒後に起こったとされる重要な出来事です。この転移がどのように進行したかを理解することは、現在の宇宙の構造を理解する上で欠かせません。標準模型に基づく計算によれば、この転移は急激な一次転移ではなく、なめらかなクロスオーバーとして起こったと予測されています。しかし、標準模型を超える新しい物理が存在すれば、一次転移になる可能性も残されています。
電弱相転移の温度は約160ギガ電子ボルトと推定されています。この温度は、陽子の質量エネルギーの約170倍に相当する膨大なエネルギーです。この温度領域では、クォークとグルーオンはまだ単独では存在できず、クォーク・グルーオンプラズマと呼ばれる高密度の状態で存在していました。このプラズマ状態の中で、電弱対称性の破れが進行していったのです。
転移の進行速度は、宇宙の膨張速度と密接に関係しています。宇宙の膨張は温度を下げる役割を果たし、一方で転移そのものも潜熱の放出によって温度変化を引き起こします。これらの競合する効果のバランスによって、転移がどのように完了するかが決まります。もし転移が一次転移であれば、真空のバブルが形成され、それが膨張して宇宙全体を満たすという劇的なプロセスを経たことになります。
電弱相転移が完了すると、宇宙の性質は根本的に変化しました。それまで質量を持たなかったWボソンとゼットボソンは、ヒッグス場との相互作用によって約80から90ギガ電子ボルトという大きな質量を獲得しました。この質量獲得により、弱い力の作用範囲は10のマイナス18乗メートル程度という極めて短い距離に制限されることになったのです。
バブル核形成のメカニズム
一次相転移の最も特徴的な現象がバブル核形成です。これは、新しい相が旧い相の中に小さな領域として現れ、それが成長していくプロセスを指します。日常的な例では、過冷却された水の中で氷の結晶が形成される現象や、沸騰する水の中で気泡が生じる現象がこれに相当します。
バブル核形成には、大きく分けて二つのメカニズムがあります。
熱的揺らぎによる核形成 高温の環境では、熱エネルギーによる量子場の揺らぎが常に存在しています。これらの揺らぎの中で、偶然に新しい相の性質を持つ領域が生じることがあります。ただし、小さなバブルは表面張力に相当するエネルギーのペナルティがあるため、ある臨界サイズを超えなければ消滅してしまいます。温度が転移点に近づくにつれて、臨界サイズのバブルが生成される確率が指数関数的に増加し、やがてバブル核形成が支配的になります。
量子トンネル効果による核形成 極低温の環境では、熱的揺らぎが不十分になり、代わりに量子トンネル効果が重要になります。量子力学では、粒子や場がエネルギー障壁を古典的には不可能な方法で透過することができます。ヒッグス場も同様に、高エネルギーの偽真空状態から低エネルギーの真真空状態へとトンネルすることが可能です。この過程は温度にはほとんど依存せず、純粋に量子効果によって駆動されます。
バブルの核形成率は、温度と場のポテンシャルの形状に強く依存します。核形成率が宇宙の膨張率を超えると、バブルが急速に生成され始めます。一つのバブルが臨界サイズを超えて成長を始めると、周囲の偽真空状態を真真空状態へと変換しながら膨張していきます。このバブル壁の伝播速度は、光速に近い速度に達することもあります。
バブルの成長過程では、解放されるエネルギーが周囲のプラズマに伝わり、衝撃波を生成します。これらの衝撃波は宇宙空間に乱流を引き起こし、その過程で重力波が生成される可能性があります。この重力波は、現在でも宇宙空間を伝わっており、将来の重力波検出器によって観測できる可能性があります。実際、リサと呼ばれる宇宙重力波検出器は、このような初期宇宙の位相転移からの重力波を検出することを主要な科学目標の一つとしています。
バブル同士が衝突すると、さらに複雑な現象が起こります。衝突の際には、膨大なエネルギーが解放され、時空の構造そのものが激しく振動します。この振動が重力波として宇宙空間に放射されるのです。バブル衝突のパターンや頻度は、位相転移の詳細な性質を反映しており、観測された重力波のスペクトルを解析することで、初期宇宙の物理を探ることができると期待されています。
一次転移の特徴と宇宙論的意義
一次相転移には、二次相転移やクロスオーバーとは明確に異なる特徴があります。最も重要な特徴は、転移の際に潜熱が解放されることです。潜熱とは、相が変化する際に吸収または放出されるエネルギーのことで、水が氷になる際に熱が放出されるのと同じ原理です。
初期宇宙における一次相転移の潜熱は、想像を絶する規模です。この莫大なエネルギーの解放は、宇宙の膨張速度に影響を与え、また周囲のプラズマを加熱します。潜熱が十分に大きければ、転移の進行を一時的に停止させることさえあります。これは、水を冷やしていくときに零度でしばらく温度が下がらなくなる現象と類似しています。
一次転移のもう一つの重要な特徴は、新しい相と古い相が共存する期間が存在することです。バブルが核形成されてから宇宙全体を満たすまでには、有限の時間がかかります。この共存期間中、宇宙は不均一な状態にあり、場所によって異なる物理法則が適用される奇妙な状況が生じます。この不均一性が、物質と反物質の非対称性を生み出すメカニズムである電弱バリオジェネシスの鍵となる可能性があります。
電弱バリオジェネシスとは、電弱相転移の際に物質と反物質の量に差が生じるという仮説です。現在の宇宙には物質が圧倒的に多く、反物質はほとんど存在しません。しかし、ビッグバン直後には物質と反物質は同量存在したはずです。この非対称性がどのように生じたかは、現代物理学の最大の謎の一つです。
一次相転移が起これば、バブル壁の周辺で非平衡状態が生じます。この非平衡状態と、素粒子物理学における小さな物質反物質の非対称性が組み合わさることで、観測される大きな非対称性が説明できる可能性があります。ただし、標準模型だけではこのメカニズムは不十分であり、新しい物理が必要とされています。超対称性理論や二つのヒッグス場を持つ拡張模型など、様々な理論が提案されていますが、まだ決定的な証拠は得られていません。
一次転移が生成する重力波の観測は、これらの理論を検証する強力な手段となります。重力波のスペクトルは転移の強さや継続時間、バブル壁の速度などの情報を含んでおり、理論モデルを区別することができます。ナノヘルツからミリヘルツの周波数帯域の重力波を精密に観測することで、標準模型を超える新しい物理の証拠を掴める可能性があるのです。
さらに、一次転移は宇宙の大規模構造形成にも影響を与えた可能性があります。バブル核形成の際に生じた密度揺らぎが、後の銀河形成の種となった可能性が指摘されています。ただし、この効果は宇宙マイクロ波背景放射の観測から示唆される密度揺らぎに比べて小さいと考えられており、主要な効果ではないとされています。
クォーク・ハドロン相転移と強い相互作用
電弱相転移よりも後、宇宙誕生から約10のマイナス5乗秒後に、もう一つの重要な位相転移が起こりました。それがクォーク・ハドロン相転移です。この転移では、それまで自由に運動していたクォークとグルーオンが結合して、陽子や中性子などのハドロンを形成しました。この転移温度は約150から170メガ電子ボルト、つまり約2兆ケルビンと推定されています。
クォーク・ハドロン相転移以前の宇宙は、クォーク・グルーオンプラズマと呼ばれる特殊な物質状態で満たされていました。この状態では、クォークとグルーオンは互いに強く相互作用しながらも、ハドロンという束縛状態を形成せずに自由に運動していました。温度が下がると、強い相互作用の性質が変化し、クォークは単独では存在できなくなり、必ずハドロンの中に閉じ込められるようになります。これを「カラー閉じ込め」と呼びます。
この転移の性質については、長年議論が続いてきました。格子量子色力学と呼ばれる数値シミュレーション手法を用いた研究により、現実的なクォーク質量の条件下では、この転移はなめらかなクロスオーバーであることが明らかになっています。つまり、明確な転移点は存在せず、徐々にクォーク・グルーオンプラズマからハドロン物質へと変化していったのです。
しかし、もしクォーク質量が現実とは異なる値だったら、転移の性質も変わります。特に軽いクォーク質量の極限では、一次相転移になることが理論的に予測されています。この予測を検証するために、世界各地の重イオン衝突実験施設では、様々なエネルギーでの実験が行われています。
クォーク・ハドロン相転移の実験的研究
重イオン衝突実験は、実験室で初期宇宙の環境を再現する試みです。金やウランなどの重い原子核を光速近くまで加速して衝突させると、衝突点で極めて高温高密度の状態が生成されます。この状態は数十ヨクト秒という極めて短い時間しか持続しませんが、その間にクォーク・グルーオンプラズマが形成されると考えられています。
主要な実験施設には以下があります。
- リラティビスティック・ヘビーイオン・コライダー: ブルックヘブン国立研究所にある世界初の本格的な重イオン衝突装置で、2000年から稼働しています。金原子核同士を衝突させ、クォーク・グルーオンプラズマの性質を詳しく調べてきました
- ラージハドロンコライダー: 欧州原子核研究機構の大型加速器で、通常は陽子衝突実験を行っていますが、定期的に鉛原子核の衝突実験も実施しています。リラティビスティック・ヘビーイオン・コライダーよりも高いエネルギーでの実験が可能です
- フェアファシリティー: ドイツに建設中の次世代重イオン衝突実験施設で、中間エネルギー領域での精密測定を目指しています。一次相転移の痕跡を探すことが主要な目標の一つです
これらの実験から、クォーク・グルーオンプラズマが完全な気体ではなく、ほぼ完全な流体として振る舞うことが明らかになっています。粘性が極めて小さく、エネルギーや運動量が効率的に輸送される性質を持っています。この発見は、強い相互作用の理解を大きく前進させました。
位相転移と宇宙の観測的証拠
初期宇宙の位相転移を直接観測することはできませんが、その痕跡は様々な形で現在の宇宙に残されています。最も有望な観測手段の一つが、原始重力波の検出です。強い一次相転移が起これば、バブルの衝突や乱流によって重力波が生成されます。これらの重力波は宇宙の膨張によって波長が引き伸ばされ、現在ではナノヘルツからミリヘルツの周波数帯域で観測できると予測されています。
重力波観測プロジェクトは、世界中で進行しています。パルサータイミングアレイと呼ばれる手法では、複数の高精度パルサーの信号を長期間観測することで、ナノヘルツ帯域の重力波を検出しようとしています。2023年には、北米ナノヘルツ重力波観測所をはじめとする複数のグループが、ナノヘルツ帯域での重力波背景放射の証拠を報告しました。ただし、これが初期宇宙の位相転移に由来するものか、超大質量ブラックホール連星に由来するものかは、まだ判断できていません。
将来的には、リサと呼ばれる宇宙重力波検出器が、ミリヘルツ帯域での精密観測を実現する予定です。リサは2030年代の打ち上げを目指しており、三機の宇宙船を250万キロメートルの正三角形に配置して、レーザー干渉計を構成します。この検出器は、電弱相転移や、それ以外の初期宇宙の位相転移からの重力波を検出できる感度を持つと期待されています。
もう一つの観測的証拠は、宇宙の物質と反物質の非対称性です。現在の宇宙には物質が圧倒的に多く、反物質はほとんど存在しません。この非対称性の起源として、電弱相転移における電弱バリオジェネシスが有力な候補の一つです。ただし、このメカニズムが機能するためには、標準模型を超える新しい物理が必要です。
宇宙マイクロ波背景放射からの制約
宇宙マイクロ波背景放射の精密観測も、初期宇宙の位相転移に制約を与えています。プランク衛星による観測データは、宇宙の密度揺らぎのスペクトルを高精度で測定しました。もし初期宇宙で強い一次相転移が起これば、それによる密度揺らぎが宇宙マイクロ波背景放射に痕跡を残すはずです。現在のところ、そのような痕跡は検出されておらず、これは初期宇宙の位相転移が比較的穏やかだったことを示唆しています。
また、宇宙マイクロ波背景放射の偏光パターンも重要な情報源です。インフレーション期に生成された原始重力波は、宇宙マイクロ波背景放射にBモード偏光と呼ばれる特徴的なパターンを刻み込みます。このBモード偏光の精密測定により、インフレーション期のエネルギースケールを決定でき、それによって位相転移の理論モデルにも制約が加わります。
標準模型を超える物理と位相転移
標準模型は素粒子物理学の極めて成功した理論ですが、いくつかの重要な問題が未解決のまま残されています。これらの問題の多くは、初期宇宙の位相転移と密接に関連しています。標準模型を拡張する様々な理論が提案されており、それぞれが位相転移に関して異なる予言をします。
超対称性理論は、標準模型の各素粒子に超対称パートナーが存在すると予言します。もし超対称性が正しければ、電弱相転移の性質が大きく変わります。最小超対称標準模型では、軽いヒッグスボソンが存在する場合、一次相転移が実現する可能性があります。ただし、ラージハドロンコライダーでの探索により、軽い超対称粒子の存在には厳しい制約が課せられており、この可能性は狭まっています。
二つのヒッグス二重項を持つ拡張模型も、一次電弱相転移を実現できる有力な候補です。標準模型では一つのヒッグス場しか存在しませんが、この拡張模型では二つのヒッグス場があり、それらの相互作用によってポテンシャルの形が複雑になります。適切なパラメータ範囲では、強い一次相転移が起こり、電弱バリオジェネシスを実現できることが示されています。
さらに先進的な理論として、余剰次元理論や合成ヒッグス模型なども研究されています。これらの理論では、ヒッグスボソンが基本粒子ではなく、より基本的な構成要素から成る複合粒子であると考えます。この場合、電弱相転移の性質は標準模型とは大きく異なり、強い一次相転移や、さらに複雑な多段階転移が起こる可能性もあります。
暗黒物質と位相転移
暗黒物質の正体も、初期宇宙の位相転移と関連している可能性があります。一つの興味深いシナリオは、暗黒物質が位相転移の際に生成されるというものです。例えば、電弱相転移の際にバブル壁で暗黒物質粒子が生成されるメカニズムが提案されています。また、暗黒物質自身が独自の相転移を経験し、それが観測可能な重力波を生成する可能性も指摘されています。
軸粒子と呼ばれる仮想的な粒子も、位相転移と深く関わっています。軸粒子は、強い相互作用におけるシーピー問題を解決するために導入された粒子で、暗黒物質の候補でもあります。軸粒子が存在すれば、クォーク・ハドロン相転移の性質が変化し、場合によっては一次相転移になる可能性があります。この転移からの重力波を検出できれば、軸粒子の存在を間接的に証明できるかもしれません。
初期宇宙の位相転移の研究は、素粒子物理学と宇宙論の境界領域にあり、両分野の知見を統合することで新しい物理の発見につながると期待されています。今後の観測技術の進歩により、理論予測を直接検証できる時代が到来しつつあります。
